2005年10月25日

海上保安庁より表彰!



町役場で、海上保安庁より表彰を受けてきました。

先月、9月25日限定水域講習中(プール実習みたいなもの)に同海水浴場、反対側の浜より、遊泳者が沖に流された!と浜で遊んでいた人に通報され、講習を中断し、他に応援を要請している暇はないと判断し、通報を浜の人に託し、3点セットのみ単独で捜索、発見、曳航、救急搬送をしたんです。

この事を知った人から、心配のメールや、お電話などで、詳細聞かれていましたが、海に携わる仕事を15年もしてながら、あまりにもショッキングな出来事で、必要以上はHPやブログにも書いてませんでした。
今日、海上保安庁からの表彰を受け、一応の区切りを自分の中でつけることが出来た気がしました。
事実を伝える事は再発防止になるかもしれないと思い今日、ここに記します



・・・・・この日は、台風17号の影響がまだ残り、快晴だったものの、海は波がまだまだ高く、とても遊泳できるような日ではありませんでした。

でもこの日のコンディションが遊泳に適さない!と判断出来るのは海に携わる仕事をしている人くらいでしょう。。。そこに今回の悲劇が待っていたのかもしれませません。
というのも、この島はリーフに囲まれた島、リーフの外は波が高くても、内側は穏やかで、水も綺麗、都会から来た方が、安心してリーフの内側で遊んでいても何の不思議もありません。離岸流なんか知っているハズはないのです。
 そしてこの方も、ほんの腰くらいの深さで水遊びをしていたらしいんです。着衣のまま、サンダル履きで。。。一見リーフの外と中と完全に遮断されてるように見える海岸の、まさにこの場所は、離岸流でそとに吐き出す流れの場所、しかも見た目はそこがこの浜で1番綺麗な砂浜なのです。
足を取られ、沖に流されるのはほんの一瞬だったはずです。

救助要請を受けたと同時に講習生に講習中断を詫び、すぐさまこの離岸流の場所に、3点セットを持って走りました。『今さっき、人が流された』という言葉に、

・・・今なら間に合う、応援を頼みにいく暇はない・・・

と思い浜に居る人に通報を託し、3点セットを付けて、腰くらいまでの深さに来ると、あっという間に沖合い数百メートル、離岸流により吐き出されました。ふと振り返ると、あまりにも大きな波に、砂浜が全く見えなくなっていた。

数分?数十分?探しただろうか?あまりの波の大きさに、自分ひとりでも帰れないんじゃないだろうか?と不安が頭をよぎり始めた。
黄色いTシャツが見えた、この時点で既に疲れきっていたが、要救助者に近づき、意識、呼吸の確認をし、レスキュー呼吸を2回、全く反応がない

・・・波の大きさからとてもこのまま人工呼吸を続けたまま岸に戻るのは不可能だ・・・、

俺も要救助者もかなりの海水を飲んでいる。決断は数秒とかからなかった。

・・・今日の波の状況から、船を待っていてもすぐには来ない、1番近い港に浮いている船は俺のだけ。しかも鍵は付いていない、海保が名瀬から来るのを待つと何時間も浮いてなければいけない、そうしたらこの要救助者の生存確率はほとんどない、賭けてみよう・・・

この巨大な波の中、岸まで要救助者をたった一人で曳航する事に賭けることにした、この人の蘇生の確率を、そして僕のプロとしてのプライドを。。。

キックをしてもキックをしても進んでいるのかわからない、波は容赦なくたたきつける。要救助者にこれ以上海水を飲まさない為に、鼻、口を覆い隠しての水面曳航は体力を消耗させ、体が進まない。。。腕が上がらない。。。このまま辿り着けずに、沈むのか。。。

波のトップからみる高さは2階以上に感じた、叩きつけられ何回転倒したかわからない、なんとかリーフは抜けていた、マスクは吹っ飛ばされ、要救助者とはぐれている、なんとか立ち上がると、要救助者はまたリーフの大きな波に引きずり込まれそうになっている。

・・・今ここで見失ったら、二度と上がらないかもしれないし、もう探す体力は残っていない、ここまで来て見捨てられるか・・・

最後の気力を振り絞り近づいた。2階ほどある高さの波は恐ろしく大きかった、恐怖感が抜けないまま、歯を食いしばり飛び込んだ。腕を掴んで引き寄せたときには、かなり浮腫み、血色が悪かった。。。抱きかかえ、必死の思いで波から遠ざかる、浜に救急車が見える担架を要請するが、中々辿り着かない。

ようやく担架が来て、人工呼吸、CPRを続けたまま救急車に乗り込み、病院まで搬送した。酸素吸入、助細動器を使い延々と続く、病院までの道のりがやたら遠くに感じる。この日の講習生は、お医者さんだったので、発見後の対応は全てこのお医者さんとチームを組み続けられた。

 表現が正しいかどうかわからないが、この要救助者は間違いなく、最速最善の体制で蘇生に向かう処置がなされたハズである。そう思いたい、命をかけて救助に向かったのだから。

思いは届かなかった。。。

あの時の判断は正しかったんだろうか?俺が見つけたとき、生きていたのだろうか?答えのない自問自答が続く、未だに気持ちの整理が付かない

翌日のお通夜、火葬場と時間が許す限り、遺族に付き合った。
『母を連れて帰ってきてありがとうございました。』と遺族に感謝された。

あれから町で会う人に、『大変だったね、ご苦労様でした。』『よくあの海に入ったよね』と声をかけられる。もし助かっていれば、胸を張って自慢したい、声をかけられても鼻高々だったかもしれない。
まだ思う出すたびに、悩むし、答えはでない。

今日のこの表彰を自分の中で一区切りにしようと思う。
最善を尽くした。あの時の判断は間違っていない。俺じゃなければ、連れて帰ってくるどころか、助けに行く事も躊躇する。間違っていなかった。と。。。

また同じような事故を起こさせないために、何か出来る事を考えよう。
そして、もしまた事故が起こったら、躊躇せずに救助に向かおう。       必ず助ける。  

Posted by shin at 19:37

2005年10月14日

初めての夏・・・



全ての改装が終わって営業していたつもりが・・・庭が土だったために、お弁当の時に突風ですなが舞い上がったタラ~タラ~タラ~

さっそく、これまた地元の繋がり、野球部の後輩の後輩(・・・という訳で初対面)の花屋の跡取り息子に依頼して一面芝生を植える事にした。コンクリートよりも涼しげでいいよ~と沖縄出身のお客さんにアドバイスをもらって早速行動!

洗い場、シャワー室、器材干し場、そして庭の芝生とやっと揃って海に専念できるようになった。
この頃はまだ、ネット環境が悪く、ダイヤルアップでネットしていたために、天気予報の確認が大変だった、前日の確認のまま海に入ってたら、朝に変化していて、浮上したらビックリびっくり!なんて事が多々あった。
(2005年2月よりADSL開通、店内は無線LAN無料インターネット環境になっています。)

 オープンして初めての夏・・・それは大阪の大学ダイビング部の合宿の受け入れ、毎日毎日、賑やかな夏になった。
三宅島時代を思い出す、毎日気が狂うほどチャージして海に潜ってワイワイ騒いで食事して。。。の繰り返しだった。1回生も無事ライセンスが取れ、念願の亀にも逢え大成功の合宿だった、、らしい、、きっと、、多分、、、。

8月は夏休みを利用して1人が研修という事で、ダイビングの経験を積むために残った。約1ヶ月、今度は毎日毎日、体験体験と体験ダイビングばかりをこなして『体験ダイビングが1番怖い・・・』と研修生がもらしていた。体験ダイビングでその人の今後のダイビング人生が決まると言ってもいい。以前からわかってはいた事だが、こうして改めて感じると、更に気を引き締めて臨む。
研修生の存在は、僕自身の初心を思い出すいいきっかけとなり。いい相乗効果が生まれた。

8月と言えば、祭り、町のものから字(あざ:集落の呼び方)単位のものまで、ほぼ毎週ある。知人が焼きそば屋を出店しているため、ほぼ毎日のように、焼きそば、フランクフルトが夕食の定番となっていた、男の食事なんてそんなもんだが・・・さすがに飽きるな。。。
そして研修生は、祭りでは売り子から、実際に焼きそば焼いたり、すっかり満喫!良かったよかった。
(ダイビングよりテキヤが上手くなってたりして・・・)

バタバタ賑やかな夏が過ぎ、秋に向かう。。。浮上して、水面から手が出た時に、風を感じて『さむっ』とまた水中にもどして秋を感じる(なんだそりゃ・・・)

秋、冬、経営という事の難しさ、楽しさを感じながら過ぎていった。12月には福岡に営業に飛び、2月には東京に飛んだ。
1年前、海の魅力をうまく伝えられず、苦汁をなめた営業も、段々と成果を出し始めていた。

年が明け、冬から春に向かい、新しい企画と共に4月がはじまり、OW講習とFUNで忙しい日々が戻ってきた。GWには、イソマグロを狙って、東京からSHOPツアーがくる事になった。
大学生助っ人2名と、忠志も含め、5人体制でGWに向かう、果たしてイソマグロトルネードは成功するんだろうか・・・  

Posted by shin at 00:58第5章  始動

2005年10月07日

次なる課題



1ヶ月近く、朝から夜中までの大工仕事の甲斐あって、なんとか“お店”の形になってきた。
お店の形がなんとか出来て、あとは注文したシャワー室が届くのをまつだけとなった・・・と思っていたら次なる課題が現れた・・・

 ボートの係留がおおきな問題点となってきた、島の港は、係留代金がかからない(都会のボートオーナーが聞くと羨ましがってしょうがないだろうが、島では、逆にこのシステムにより大きな問題が)ので、仕事で使わない、趣味のボートが多すぎる、漁協に入会し、準組合になったものの、係留場所が割り当てられるわけでもなく、港の何処が空いているのかわからない状況。。。

 とりあえずここなら空いてそうだと、潜って係留アンカーを作ってボートを泊めていると、アンカーは斬られ、ボート用品は盗まれ。。。大変な事に

 また移動して、ここは空いているだろうと係留していると、見知らぬオッちゃんが店に怒鳴り込んできた。。。『あんた○○の息子か?あそこにボート泊めてるのはみてな。。。』と、誰の息子とか関係ないだろ、しかも実の親父じゃねえんだよ~と逆キレしてやろうかと思った。
まだ船名を書いていないうちのボート、しかもこの港の中では大きい為に、いろんな人が誰のだ?と探していたらしい。しかもこのオッちゃん、某ショップのボートに嫌がらせを受けて移動したのに、そこに何も知らない俺が泊めていたから、怒るのも無理ないか。。。

 結局このオッちゃん、俺の親父(正確には、母の再婚相手)と幼馴染という事で、以前係留していた場所を俺に提供してくれた。。。ん~島ならではの、変な急展開に、まあ結果オーライ、母よ、でかした!

 係留はよしとしても今度は台車が大きな問題となった、東京から運んできた台車は、都会のマリーナ仕様で、いわゆる船台、しかし台風の通り道である沖永良部では、台風のたびにボートを陸に上げ、しかも港から移動しなくてはいけない、トレーラータイプが必要となる、ちょうどサイパンでボートを移動させていたようなタイプが必要になった。。。
 
 どうしたもんかな~、どこに頼もうかと思っていた矢先、『しんいちろ~久しぶりやな~』と話しかけてきた、お兄ちゃんは、小学校の時、一緒に相撲大会でただろ~と○田氏、ん~微妙な記憶、何年、いや20年前の話じゃんか。。。そしてその連れが自動車整備工場で、、、と現れたのは中学同級生の兄ちゃん、今度は田舎ならではの人徳?これまた結果オーライ!良かった地元で、勉強せず、スポーツばかりしてて顔広くて良かった。
 出費がかさむ事ばかりで堪えるが、台風の時ボートが上げれなくては話にならないし・・・東京の台風の感覚とは違うな~やっぱり

そしてこの台車製作にかかわり、また個性的な知人が増えた、ジャン・レノそっくりのおじ様でお客さんから大人気のエンジニア登場、島だからいろんな人と知り合い、仕事上の付き合いからはじまっても、友達のように助けてくれる。     これが大切な財産なんだな。

 良い事も悪い事も島ならでは・・・地元に帰って仕事をするという事は、こどもの頃とは違い、都会での生活とのギャップを、いい意味で理解し、受け入れ、たくさんの人と知り合い助けて、助けられていくんだな。。。
  三宅の先生が言っていた事が段々わかるように、身にしみてくるようになった。

シャワーが届き、店のあらかたが完成し、2003年5月、初のゲストを迎え入れる事になった、緊張だ~。
 十数年の準備の末、シードリーム浦安を経て、いよいよシードリーム沖永良部としてゲストを迎える。お昼に聞くCDはこれだ・・・ポイントはここに行って、こんなブリーフィングをして、弁当屋の手配もOK,庭はほうきで波模様をつけて(これサイパン時代チャモロ人の友人に教えてもらった)準備万端!

1本目問題なく終了し、自慢のウッドデッキで初のランチタイム食事、その時突然、とんでもない事が・・・全く予期しないトラブル発生タラ~

あぁ~弁当が・・・・・タラ~タラ~タラ~  

Posted by shin at 00:57第5章  始動