2005年10月25日

海上保安庁より表彰!



町役場で、海上保安庁より表彰を受けてきました。

先月、9月25日限定水域講習中(プール実習みたいなもの)に同海水浴場、反対側の浜より、遊泳者が沖に流された!と浜で遊んでいた人に通報され、講習を中断し、他に応援を要請している暇はないと判断し、通報を浜の人に託し、3点セットのみ単独で捜索、発見、曳航、救急搬送をしたんです。

この事を知った人から、心配のメールや、お電話などで、詳細聞かれていましたが、海に携わる仕事を15年もしてながら、あまりにもショッキングな出来事で、必要以上はHPやブログにも書いてませんでした。
今日、海上保安庁からの表彰を受け、一応の区切りを自分の中でつけることが出来た気がしました。
事実を伝える事は再発防止になるかもしれないと思い今日、ここに記します



・・・・・この日は、台風17号の影響がまだ残り、快晴だったものの、海は波がまだまだ高く、とても遊泳できるような日ではありませんでした。

でもこの日のコンディションが遊泳に適さない!と判断出来るのは海に携わる仕事をしている人くらいでしょう。。。そこに今回の悲劇が待っていたのかもしれませません。
というのも、この島はリーフに囲まれた島、リーフの外は波が高くても、内側は穏やかで、水も綺麗、都会から来た方が、安心してリーフの内側で遊んでいても何の不思議もありません。離岸流なんか知っているハズはないのです。
 そしてこの方も、ほんの腰くらいの深さで水遊びをしていたらしいんです。着衣のまま、サンダル履きで。。。一見リーフの外と中と完全に遮断されてるように見える海岸の、まさにこの場所は、離岸流でそとに吐き出す流れの場所、しかも見た目はそこがこの浜で1番綺麗な砂浜なのです。
足を取られ、沖に流されるのはほんの一瞬だったはずです。

救助要請を受けたと同時に講習生に講習中断を詫び、すぐさまこの離岸流の場所に、3点セットを持って走りました。『今さっき、人が流された』という言葉に、

・・・今なら間に合う、応援を頼みにいく暇はない・・・

と思い浜に居る人に通報を託し、3点セットを付けて、腰くらいまでの深さに来ると、あっという間に沖合い数百メートル、離岸流により吐き出されました。ふと振り返ると、あまりにも大きな波に、砂浜が全く見えなくなっていた。

数分?数十分?探しただろうか?あまりの波の大きさに、自分ひとりでも帰れないんじゃないだろうか?と不安が頭をよぎり始めた。
黄色いTシャツが見えた、この時点で既に疲れきっていたが、要救助者に近づき、意識、呼吸の確認をし、レスキュー呼吸を2回、全く反応がない

・・・波の大きさからとてもこのまま人工呼吸を続けたまま岸に戻るのは不可能だ・・・、

俺も要救助者もかなりの海水を飲んでいる。決断は数秒とかからなかった。

・・・今日の波の状況から、船を待っていてもすぐには来ない、1番近い港に浮いている船は俺のだけ。しかも鍵は付いていない、海保が名瀬から来るのを待つと何時間も浮いてなければいけない、そうしたらこの要救助者の生存確率はほとんどない、賭けてみよう・・・

この巨大な波の中、岸まで要救助者をたった一人で曳航する事に賭けることにした、この人の蘇生の確率を、そして僕のプロとしてのプライドを。。。

キックをしてもキックをしても進んでいるのかわからない、波は容赦なくたたきつける。要救助者にこれ以上海水を飲まさない為に、鼻、口を覆い隠しての水面曳航は体力を消耗させ、体が進まない。。。腕が上がらない。。。このまま辿り着けずに、沈むのか。。。

波のトップからみる高さは2階以上に感じた、叩きつけられ何回転倒したかわからない、なんとかリーフは抜けていた、マスクは吹っ飛ばされ、要救助者とはぐれている、なんとか立ち上がると、要救助者はまたリーフの大きな波に引きずり込まれそうになっている。

・・・今ここで見失ったら、二度と上がらないかもしれないし、もう探す体力は残っていない、ここまで来て見捨てられるか・・・

最後の気力を振り絞り近づいた。2階ほどある高さの波は恐ろしく大きかった、恐怖感が抜けないまま、歯を食いしばり飛び込んだ。腕を掴んで引き寄せたときには、かなり浮腫み、血色が悪かった。。。抱きかかえ、必死の思いで波から遠ざかる、浜に救急車が見える担架を要請するが、中々辿り着かない。

ようやく担架が来て、人工呼吸、CPRを続けたまま救急車に乗り込み、病院まで搬送した。酸素吸入、助細動器を使い延々と続く、病院までの道のりがやたら遠くに感じる。この日の講習生は、お医者さんだったので、発見後の対応は全てこのお医者さんとチームを組み続けられた。

 表現が正しいかどうかわからないが、この要救助者は間違いなく、最速最善の体制で蘇生に向かう処置がなされたハズである。そう思いたい、命をかけて救助に向かったのだから。

思いは届かなかった。。。

あの時の判断は正しかったんだろうか?俺が見つけたとき、生きていたのだろうか?答えのない自問自答が続く、未だに気持ちの整理が付かない

翌日のお通夜、火葬場と時間が許す限り、遺族に付き合った。
『母を連れて帰ってきてありがとうございました。』と遺族に感謝された。

あれから町で会う人に、『大変だったね、ご苦労様でした。』『よくあの海に入ったよね』と声をかけられる。もし助かっていれば、胸を張って自慢したい、声をかけられても鼻高々だったかもしれない。
まだ思う出すたびに、悩むし、答えはでない。

今日のこの表彰を自分の中で一区切りにしようと思う。
最善を尽くした。あの時の判断は間違っていない。俺じゃなければ、連れて帰ってくるどころか、助けに行く事も躊躇する。間違っていなかった。と。。。

また同じような事故を起こさせないために、何か出来る事を考えよう。
そして、もしまた事故が起こったら、躊躇せずに救助に向かおう。       必ず助ける。  

Posted by shin at 19:37

2005年10月14日

初めての夏・・・



全ての改装が終わって営業していたつもりが・・・庭が土だったために、お弁当の時に突風ですなが舞い上がったタラ~タラ~タラ~

さっそく、これまた地元の繋がり、野球部の後輩の後輩(・・・という訳で初対面)の花屋の跡取り息子に依頼して一面芝生を植える事にした。コンクリートよりも涼しげでいいよ~と沖縄出身のお客さんにアドバイスをもらって早速行動!

洗い場、シャワー室、器材干し場、そして庭の芝生とやっと揃って海に専念できるようになった。
この頃はまだ、ネット環境が悪く、ダイヤルアップでネットしていたために、天気予報の確認が大変だった、前日の確認のまま海に入ってたら、朝に変化していて、浮上したらビックリびっくり!なんて事が多々あった。
(2005年2月よりADSL開通、店内は無線LAN無料インターネット環境になっています。)

 オープンして初めての夏・・・それは大阪の大学ダイビング部の合宿の受け入れ、毎日毎日、賑やかな夏になった。
三宅島時代を思い出す、毎日気が狂うほどチャージして海に潜ってワイワイ騒いで食事して。。。の繰り返しだった。1回生も無事ライセンスが取れ、念願の亀にも逢え大成功の合宿だった、、らしい、、きっと、、多分、、、。

8月は夏休みを利用して1人が研修という事で、ダイビングの経験を積むために残った。約1ヶ月、今度は毎日毎日、体験体験と体験ダイビングばかりをこなして『体験ダイビングが1番怖い・・・』と研修生がもらしていた。体験ダイビングでその人の今後のダイビング人生が決まると言ってもいい。以前からわかってはいた事だが、こうして改めて感じると、更に気を引き締めて臨む。
研修生の存在は、僕自身の初心を思い出すいいきっかけとなり。いい相乗効果が生まれた。

8月と言えば、祭り、町のものから字(あざ:集落の呼び方)単位のものまで、ほぼ毎週ある。知人が焼きそば屋を出店しているため、ほぼ毎日のように、焼きそば、フランクフルトが夕食の定番となっていた、男の食事なんてそんなもんだが・・・さすがに飽きるな。。。
そして研修生は、祭りでは売り子から、実際に焼きそば焼いたり、すっかり満喫!良かったよかった。
(ダイビングよりテキヤが上手くなってたりして・・・)

バタバタ賑やかな夏が過ぎ、秋に向かう。。。浮上して、水面から手が出た時に、風を感じて『さむっ』とまた水中にもどして秋を感じる(なんだそりゃ・・・)

秋、冬、経営という事の難しさ、楽しさを感じながら過ぎていった。12月には福岡に営業に飛び、2月には東京に飛んだ。
1年前、海の魅力をうまく伝えられず、苦汁をなめた営業も、段々と成果を出し始めていた。

年が明け、冬から春に向かい、新しい企画と共に4月がはじまり、OW講習とFUNで忙しい日々が戻ってきた。GWには、イソマグロを狙って、東京からSHOPツアーがくる事になった。
大学生助っ人2名と、忠志も含め、5人体制でGWに向かう、果たしてイソマグロトルネードは成功するんだろうか・・・  

Posted by shin at 00:58第5章  始動

2005年10月07日

次なる課題



1ヶ月近く、朝から夜中までの大工仕事の甲斐あって、なんとか“お店”の形になってきた。
お店の形がなんとか出来て、あとは注文したシャワー室が届くのをまつだけとなった・・・と思っていたら次なる課題が現れた・・・

 ボートの係留がおおきな問題点となってきた、島の港は、係留代金がかからない(都会のボートオーナーが聞くと羨ましがってしょうがないだろうが、島では、逆にこのシステムにより大きな問題が)ので、仕事で使わない、趣味のボートが多すぎる、漁協に入会し、準組合になったものの、係留場所が割り当てられるわけでもなく、港の何処が空いているのかわからない状況。。。

 とりあえずここなら空いてそうだと、潜って係留アンカーを作ってボートを泊めていると、アンカーは斬られ、ボート用品は盗まれ。。。大変な事に

 また移動して、ここは空いているだろうと係留していると、見知らぬオッちゃんが店に怒鳴り込んできた。。。『あんた○○の息子か?あそこにボート泊めてるのはみてな。。。』と、誰の息子とか関係ないだろ、しかも実の親父じゃねえんだよ~と逆キレしてやろうかと思った。
まだ船名を書いていないうちのボート、しかもこの港の中では大きい為に、いろんな人が誰のだ?と探していたらしい。しかもこのオッちゃん、某ショップのボートに嫌がらせを受けて移動したのに、そこに何も知らない俺が泊めていたから、怒るのも無理ないか。。。

 結局このオッちゃん、俺の親父(正確には、母の再婚相手)と幼馴染という事で、以前係留していた場所を俺に提供してくれた。。。ん~島ならではの、変な急展開に、まあ結果オーライ、母よ、でかした!

 係留はよしとしても今度は台車が大きな問題となった、東京から運んできた台車は、都会のマリーナ仕様で、いわゆる船台、しかし台風の通り道である沖永良部では、台風のたびにボートを陸に上げ、しかも港から移動しなくてはいけない、トレーラータイプが必要となる、ちょうどサイパンでボートを移動させていたようなタイプが必要になった。。。
 
 どうしたもんかな~、どこに頼もうかと思っていた矢先、『しんいちろ~久しぶりやな~』と話しかけてきた、お兄ちゃんは、小学校の時、一緒に相撲大会でただろ~と○田氏、ん~微妙な記憶、何年、いや20年前の話じゃんか。。。そしてその連れが自動車整備工場で、、、と現れたのは中学同級生の兄ちゃん、今度は田舎ならではの人徳?これまた結果オーライ!良かった地元で、勉強せず、スポーツばかりしてて顔広くて良かった。
 出費がかさむ事ばかりで堪えるが、台風の時ボートが上げれなくては話にならないし・・・東京の台風の感覚とは違うな~やっぱり

そしてこの台車製作にかかわり、また個性的な知人が増えた、ジャン・レノそっくりのおじ様でお客さんから大人気のエンジニア登場、島だからいろんな人と知り合い、仕事上の付き合いからはじまっても、友達のように助けてくれる。     これが大切な財産なんだな。

 良い事も悪い事も島ならでは・・・地元に帰って仕事をするという事は、こどもの頃とは違い、都会での生活とのギャップを、いい意味で理解し、受け入れ、たくさんの人と知り合い助けて、助けられていくんだな。。。
  三宅の先生が言っていた事が段々わかるように、身にしみてくるようになった。

シャワーが届き、店のあらかたが完成し、2003年5月、初のゲストを迎え入れる事になった、緊張だ~。
 十数年の準備の末、シードリーム浦安を経て、いよいよシードリーム沖永良部としてゲストを迎える。お昼に聞くCDはこれだ・・・ポイントはここに行って、こんなブリーフィングをして、弁当屋の手配もOK,庭はほうきで波模様をつけて(これサイパン時代チャモロ人の友人に教えてもらった)準備万端!

1本目問題なく終了し、自慢のウッドデッキで初のランチタイム食事、その時突然、とんでもない事が・・・全く予期しないトラブル発生タラ~

あぁ~弁当が・・・・・タラ~タラ~タラ~  

Posted by shin at 00:57第5章  始動

2005年09月29日

ついに帰島



鹿児島からのフェリーで、ついに?やっと?沖永良部に到着した。18時間の船旅を終え、帰省は別として、約15年ぶりに島に帰ってきた。

懐かしい感じがする。。。。

港を降りると一足先に貨物船で、ボートが到着していた。ピカピカに光る船体を見て、『これから頑張るぞ~』と心の中で誓った。
久々に走る町並みは、ほとんど変わっていない、昔と何も変わらない。。。だからホッとする故郷なんだろうな。。。

お店となる民家についた。

   『うげぇえええ~、なんじゃこりゃ~~タラ~

これって、お化けやしき???床は抜けてるし、壁はないに、誰のかわからない荷物はいっぱいだし。。。
これを店に改造するまでに、一体どのくらいの時間が掛かるんだ。。。。

まさに“ビフォーアフター”状態・・・ガ-ン

そして、にわか大工生活がスタートする。。。俺、海に入るために帰ってきたのに。。。
でもこれがまた、やってみると中々面白い。。。ものを作り出すのもいいな・・・なんて思いながら

トイレ、風呂、シャワー室、ウッドデッキ、テーブル、器材洗い場などを製作、ここにたくさんのダイバーが訪れ、笑って楽しむ。。。と思い浮かべながらもくもくと毎日深夜まで作業は続いた。  

2005年09月22日

交通事故?



  吹き上がる泡がやがて無くなるかのように・・・夢は消えていくのだろうか・・・
  
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2005年09月19日

大成功?の関西営業



神戸営業2日目は、交番の事情徴収?からだった。1件目のお店に向かうため、初となる明石大橋を眺めながら公園を歩いていると、目の前に財布が落ちてる。。。

素通りしようかどうしようか迷った挙句に、駅が近い事から交番もあるだろう・・・と拾った。拾った瞬間、今持ち主が引き返してきて、泥棒扱いされたら嫌だな。。。と小心者ガ-ン
大急ぎで交番に向かった、おまわりさん立会いのもとで中身を確認すると7000円前後だったので、拾い主の1割謝礼の権利は放棄する書類を書いた(へぇ~こんなものまで書くんだ・・・もう神戸はなれるしな・・・と思いながら)

ちゃっかり次の営業先の行き方も聞いて、交番をあとにした。

どこに行っても、ゆっくりと話を聞いてくれ、次のツアーの予定を話してくれたりと、関西は好調だった。
旨いものたくさん食うぞ・・・と思いながらだったが、前回同様、時間が勿体無く、結局コンビニで済ませ慌しく走り回った。

充実感があった、やっと整いつつある夢舞台への準備、楽しくないはずがない!

神戸、大阪(時間の都合上1件しか回れなかったのが残念)はまずまずの成功だった。
久々に親父と過ごした時間は、なんとも言えない時間だった、親父の心配する話ばかりだった。
子供の頃は暴力ばかり怖い事しか思い出がなかったが、十何年ぶりに過ごす親子の時間は改めて親のありがたさを知るのに貴重な時間だった。

                心配かけないためにも頑張らなきゃな~

親父は『無理せず頑張れ、体が第一』『損して得取れなんて言葉もあるしな・・・でもホンマに大丈夫かいな・・・』とありきたりだが、あの親父にしてはやさしい言葉をかけてくれた。

いつか親父に、『ほら・・・大丈夫だろ!』と胸張って報告したい、そのためにも頑張らねば、、、
後ろ髪を引かれる思いで(刈り上げだから良くわからんが・・・)

神戸を離れ、次の目的地、広島に向かった、サイパン時代のお客さんが集まってくれるそうだ、高速を広島に向かう、パーキングで佐川急便の上司からメールが入った、

 『お疲れ様、がんばってくれぐれも出戻りしないように・・・』夢を抱いて退職したあとにすぐ戻るのが多い佐川急便ならではの送り出しの言葉だ。胸にしみる、絶対に成功させるぞ!

標高800Mの高速道路を走行中、マジで死を覚悟する出来事が・・・  

2005年09月07日

所変われば・・・



 関西の営業がはじまった。所変われば・・・と言うもので、惨敗の名古屋営業とはうって変わって、大半のお店がゆっくりと話をきいてくれ、順調にお土産も渡しながら(心の中で小さくガッツポーズしながら・・・)の営業が続いた。

 1件目から、9月のツアーを検討してくれ、順調順調ニコニコ

 とは言うものの、やはり世の中そんなに甘くない、中には、前回同様、なんとか名刺交換というお店も何回かあった。
 『うちはいらね~入ってくんな!』と怒鳴り散らされるお店もあってビックリ・・・(慣れっこ???いえいえまあまあ話だけでも。。。とズカズカはいり挨拶しながら・・・これくらいこれくらいと思いながら話を続ける)

 ここは、僕が大きなバック(お土産ガジャ豆入り)を持っていたために、違うセールスと勘違いしたらしい。。。ヘリハンのウインドブレーカーなのにタラ~
その後は、ゆっくりと話を聞いてくれました。   あ~キレないで良かった良かった。

 次に入ったショッピングセンター内のお店は、担当者がいないから、1時間後に再度来てくれと言われ、時間を調整して行くと、大歓迎で迎えてくれた。(神戸の人はいい人だな~なんて思いながら・・・)
多店舗経営をしているお店で、すぐにも他の店舗に紹介してくれる話になった。

 携帯が鳴った。佐川急便の後輩が心配して電話をくれた。神戸出身だから特に気にしてくれているらしい。
  『ガハハ!順調だぜ~!』  名古屋の時、電話もらわなくて良かった、なんて思いながら。。。

1件1件がかなり濃い営業の話が出来、明日も神戸を回る事にした、子供の頃10歳まで住んでいた、鴨子ヶ原にも行ってみようかな・・・なんて精神的余裕も少し出てきた。

 所変われば・・・

神戸営業2日目は、交番での事情徴収からになった。。。その内容は・・・

  

2005年09月01日

関西パワー炸裂♪



名古屋での(惨敗?)営業を終え、初めての通天閣を見ながらパンをかじり高速を走り次の目的地である神戸に到着すると、親父が笑顔で迎えてくれた(子供の頃は怖くて、怒ってばかりだったくせに・・・なんだその飛び切りの笑顔は・・・と声に出せない突っ込み、いまだに怖い)

 名古屋での営業を話して、久々の酒を親父と酌み交わした。

 予定日より早い事に、さぞかし惨敗だったんだろう。。。と話す前からわかってたらしい・・・さすが親父!って俺が子供の頃そんだけ話のわかる親父だったらな。。。(もちろんこれも言えない。。。)
久々酌み交わした酒と、文字通り、足で回った営業に疲れ果て、久々の布団での睡眠は格別に心地良く、次の日が土曜という事もあり、かなりの時間、爆睡した(今回は飛び込み営業の為に、週末は避けていた)

 土日、営業をさけ、親父と親父の新しい家族と、不思議な週末を過ごした。義理の兄(この表現でいいのかな?)妹とその子供達と買い物に行ったり、食事をしたり・・・
みんなが集まる中心に親父がいて、もうすっかり新しい家族の大黒柱(十数年も前から家族だから当たり前か・・・)の親父、親父を『じーじ』と呼ぶ孫達を見て、なんだかほっとした気分になった。
親父も苦労して、新しい幸せを手に入れたんだな。。。と生意気にも安心した。

 週があけ、いよいよ関西営業スタート!名古屋の分も取り返すぞ!と張り切って臨んだ。駅に着くと小走りで店を探す。歩くと何か罪悪感があるのは、体に染み付いた、佐川魂♪

そして1件目  『こんにちは、はじめまして、私。。。』

 名古屋とは違う洗礼?を浴び、違う意味で、関西営業も苦しむ事になった。。。  

2005年08月21日

門前払いが続く営業・・・



 名古屋初上陸、手作りパンフレット、名刺、お土産用、がじゃ豆をバックに詰め込み、初の名古屋営業に意気揚々と出かける事にした。

 離島のダイビングサービスがオープンするのに、わざわざ営業にくる所なんかないだろう(ダイレクトメールや、eメール、雑誌広告などの営業はあっても)だから、尚更インパクトがあり効果大だろう!
佐川急便での集配業務をしながらの営業に比べれば、自分の好きな事、地元の海の事、十数年も準備をしてきた事を考えれば、楽勝だ~頑張るぞ!

 1件目から出鼻を挫かれる事になった。。。

 お店の開店時間に合わせて挨拶して入る。『まあどうぞ!』と声をかけられ、椅子に座り観光パンフレット、自作パンフレット、お土産のがじゃ豆を渡し、熱く、ワキャ島の海の話をする。
なんか上の空だな。。。気のせいかな?と思いながら話を続ける。15分は話しただろうか?この15分という時間は長いのか?短いのか?あの反応はどうなんだろう?あんまり興味持てなかったのかな?様々な事を思いながら、1件目の営業が終わった。

 しかし、これはこの後の名古屋営業を考えれば、とてもいい状況だった、この後に続く、屈辱の営業に比べれば。。。

2件目に向かって走った。夕方のお店のお客さんが遊びに来る時間帯までの1件でも多く回らなければ。。。がじゃ豆がぎっしり詰まったバックが重い、、、このバックが軽くなる頃には、予約とか取れてるといいな~、この時点ではまだ暢気にそんな事を考える余裕があった。

 佐川急便時代の営業は、時間のない中、勢いで入っていく営業だった。この自分の店の営業は得意分野で、しかも地元の事だから、ドンドン話が進み上手くいく、上手くいかないわけがないと思いながらだったから、その状況が自分で理解不可能な状況まで追い込まれていった。。。

2件目以降、入り口さえ入らせてもらえない状況が続く、『沖永良部?どこだ?』てな具合で、まともに話を聞いてもらえない店がほとんど、『せめて名刺だけでもいただけませんか?』とハラワタ煮えくり返る思いで頭を下げて歩く事ばかりだった。とてもお土産のがじゃ豆を出せる状況ではない、肩にズッシリかかる重さが堪える。毎日毎日走って鍛えておいたはずの足が上がらない。。。足取りはドンドン重くなり、走る気力が萎えてきた。

 断られてからが営業だ!十数年も準備してきて、やっと実現できる、スタートラインにたとうとしている。こんな所で負けてたまるか!自分を奮い立たせて次の店に走る。この店は何店舗も展開する店、この店の営業が上手くいけば、ここまでの失敗も取り返せる。頑張るぞ~

 階段を駆け上がる。『こんにちは、初めまして~』 この日1番の気合でお店に入る。

                    秒殺された。
 
 『お前アポも取らずに、忙しいんとこ入ってくるな!邪魔だよ。。。(怒)』もの凄い形相で睨まれた。

今日はことごとく上手く行かない営業ばかりだったが、さすがにこの一言には、心が折れた。。。
一瞬なすすべなく、呆然と突っ立っていた。。。

 ブチッ!!!、キレた自分がいた、、、、その状態を必死にこらえた、“いつか絶対見返してやる、あたま下げさせてやる・・・”人生の中でこんなに屈辱を感じた事があっただろうか・・・

 『お忙しいところ、アポも取らずに突然お邪魔しまして申し訳ありませんでした。お名刺だけでもよろしいでしょうか?』

  深々と頭を下げ店をあとにした。2階からの階段から転げ落ちたかった。。。涙があふれ出ていく

公園のベンチに座った。もう全く気力が残っていない。。。朝からなにも食べてないことに初めて気づいた。ショックのあまり全く食欲がでなかった。断られてからが・・・とは言え、さすがにきつかった。
久々に泣いた。悔しくて悔しくて。。。

何時間座ったままだっただろうか?3月の公園のベンチは冷たく寒い、体は震え、微動だにしなかった。空を見上げて、名古屋1件もとれなくてもいいかな~なんて弱気に逃げ腰になった。。。

まだまだ、始まったばかり、負けてたまるか?これからのほうがもっともっと苦しいはずだ、こんな事くらいで・・・もう一度奮い立たせ、最後のお店に向かった。

 『初めまして、沖永良部島に今度・・・』  またしても自己紹介の途中で止められた、
またここもか・・・不安が一瞬よぎる。。。名古屋全敗か。。。

『まあ、遠いところをわざわざ、寒いからこっちに座りなさい!』 オーナーの暖かい言葉に、体中の力が抜けホッとした。椅子に座った瞬間、今日1日の屈辱の営業が頭をグルグル回った。

初めてお客さんの前で泣いてしまった。ほっとしたのか、うれし泣きなのか?笑われてしまったが。。。
バックの中の名古屋の分の全てのがじゃ豆を出し、この日初めて、反応がある方に、熱く熱く営業を開始した。なみだ鼻水をすすりながら。。。

こうして屈辱、屈辱、屈辱、最後の最後の成功の名古屋営業が終わった。コインパーキングに戻り、車に座った、締め切った車内で、『負けるか?これからだ!1件成功だ!』大声で叫んだ!

1勝14敗の名古屋営業、負けたままでは終わらないぞ~いつか絶対、こっちを向かせてやる。強く心に刻み、次の目的地である神戸に向かい車を走らせた。
 
 高卒ルーキーがプロの洗礼をあびたような苦い苦い1日だった。たった1件の反応でも単純な僕には自信と力になった、あとは今後振り向かせればいい。これからが始まりだ!

 この1件のお店はまだ、実質の業務上の付き合いはまだだが、東京のセミナーでお逢いした時もご挨拶をさせていただき、あの後、僕のお店がPIRAリゾートになった事も、PJレポートで特集に組まれた事も知っていてくださり大変感動しました。再会したときにも泣きそうだった。

 『近々行きたい、いつもメールでの情報ありがとう』と声をかけていただいた。
 
こちらこそありがとうございます。あの時折れた心のままで、名古屋を後にしなくて良かったと心底思った。

  そして、この時の心を折ってくれた(苦笑)、別のお店のオーナーに数年後、

『初めまして、いつも活躍拝見してますよ』

        と挨拶された。やっとここまで来た!と思い僕は飛び切りの笑顔で答えた、

『ご無沙汰しております。その節は大変失礼致しました。』  ニヤッ

  『???』  オーナーの表情が忘れられない。(こんな事が他にもあるんですけどね・・・笑)


そして数時間後神戸に到着した、何年ぶりかに会う、親父は元気だった。久々に布団で寝た。神戸大阪営業に向け鋭気を蓄えなきゃ。。。  

2005年08月19日

微妙な・・・



いよいよ微妙な体調になってきた。。。きょうの朝起きたら、左足首が全く動かなかった、膝も痛かった。


  本文とはかなりずれましたね。。。  

Posted by shin at 00:28

2005年08月03日

最終準備態勢・・・



人生のジェットコースターが下りきった、皮肉なもので、プライベートはズタズタなこの頃、仕事は順調そのもので、営業職としては名誉な全国での表彰などと好調そのもの、更に昇進なんて話が出てきて、このままでは佐川急便やめれないな~と、焦りながら、最終目標のダイビングサービス設立準備を始めた。

 まずはそれまでの、5人乗りの乗用車を8人乗りワゴンに買い替え、ダイビングボートを探す、イントラ資格の整備で、更に資格を増やした。HP開設に向け準備をはじめた(これが中々すすまないパソコンOWの僕にとってこれが1番の難関かも・・・)
 店の場所が決定し、オープン用の器材の購入を始めた、10Lスチールタンク20本、レンタル器材・・・etc

 休みの日を利用しての、ダイビングショップ廻り・・・佐川急便のおかげで、飛び込み営業はなれたものだった。しかも自分の好きなダイビング、ワキャ島(方言:私の育った島)の海の事だから、ドンドン話せる。
 問題点は、まだ施設が完成してないために、シャワー、トイレ、ロギングスペース、etcの詳しい話が出来ない事、逆に考えれば、様々な意見を取り入れられるチャンスでもあった、意見にはドンドン耳を傾け吸収する事を心がけた。

 2003/3/20退社日が正式に決定した。

散々悩んだ挙句に、車で日本横断飛び込み営業する事にした。パンフレット製作の為に、何日間もパソコンフル稼動だった。(行った事ない所だらけで、営業とはいえ楽しみな一人旅がスタートした)

 3/27 千葉を車で出発し、まずは名古屋に飛び込み営業に向かう事にした、名古屋初上陸シーサーメス

ダイビングショップ、しかも沖永良部から全国の営業なんてないから、インパクトあって反響あるだろうな・・・と意気揚々と乗り込んだが、しかし、世の中そんなに甘くない!  

2005年07月25日

ギャップに戸惑いながら・・・



日本に帰国後の生活、時間に追われて、日々の生活でいっぱいいっぱい・・・夢を見失うんじゃないか?と心配するほど、生活が変わった。。。

 ダイビングショップ設立の資金稼ぎとして入社した、佐川急便(入社当時は、千葉佐川急便(株))は、朝早くから夜遅くまで、1日平均3時間~5時間寝れればいいほうの毎日だった。

 週末館山や、伊豆に通うFUNダイビングだけが、僕とダイビングを結びつけるものだった。

この激しい生活に慣れるのが先か?体が壊れるのが先か?と思いながら仕事をしていた。

高校の担任が言ってました。『人間どんな生活も3ヶ月我慢すれば慣れる!』その言葉を信じ、3ヶ月を乗り切ろうとしていた、年末の忙しさのピークを向かえ、月4回の休みも予定を入れるな!と言われる、忙しい忙しい12月が過ぎていった・・・

 4トントラックを乗り回し昼飯もろくに食えずに走り回る生活にも慣れ、春が訪れ、本当に体が慣れてきた、5時間寝れれば楽勝!3時間でも平気な体が出来上がる(^^;)頃、2トンドライバーに昇格の話が来た(当時は入社後のペーペーが4トン車ドライバー、仕事が出来ると2トンドライバーに昇格という流れだった、もちろん給料も20万以上も開きがある)
 
 そしてこの2トンドライバーに昇格は、給料のアップはもちろん、僕がダイビングショップを経営する上での1番大切な、営業力を身につける機会を与えてくれた。意外な産物?だった。

この頃には結構佐川急便の仕事が好きになっていた(笑)頑張れば頑張るほど評価される仕事!やりがいがある!

 もちろん、この忙しさの中でも、週末の休みを利用して、OW講習やFUNダイビングツアーなどは行なっていた。今思えばパワフルだった。気がつけば、佐川急便の自分の周りが講習生になっていた(笑)サイパンツアーや、慶良間ツアー、神子元ツアーなども行なっていた。

 日々の忙しさから中々海にはいけないが、たまの休みを楽しみにダイビングに行く気持ちがわかるようになった事、これも今思えば大切な財産。
 いつでも海に行ける現地サービスを経営していると、ついつい海に行く楽しみな気持ちを忘れがちになる。だからそんな状況に追い込まれる事により気持ちを理解できるようになったのは、この先も決して忘れないようにしなければいけない大切な気持ちだ。


 入社後5年がたつころ、ひとつのポストを与えられてしまった。(勝ち取った)。営業主任となった、今までと同じように集配業務をしながら自分の部下を持ち、責任も増えてくる。でもこれも今思えば、営業の基本、人付き合いの基本、為になる、いい人生経験だ。

 そしてこの頃、人生のジェットコースターは急激な登りから、まっさかさまに落ちていく・・・いや~困った困った。。。  

2005年07月23日

GROTTOに後ろ髪を・・・



日本でのチャンバー治療を終え、サイパンに帰国し、これからガンガン潜るぞ~と意気込んでいたものの・・・その後、サイパンの海でガイドしたのはわずか3ヶ月足らずだった。

その間、ある問題から全く笑えない日々が続き、STAFFから心配される日々が・・・決断をし、GROTTOに後ろ髪を引かれる思いで、サイパンの3年間にピリオドを打つ事にした。
 
日本に帰って、最終目標である、地元沖永良部でのダイビングショップサービスに向けて、次は資金稼ぎだ!と佐川急便の面接にあわせて帰国した。。(もうどっちが本国かわからない帰国ですね)

 面接に行った、ほとんど即決だった、当時の佐川急便はまだまだ人手不足で難なく入れた、入ってからが地獄の日々なんですがね。。。(今思えば、よく7年間も続いたな~と。。。)
半年と立たないうちに、帰国の元となったプライベートな問題は片付いた。夢に向かって一直線だ!
今度こそ。。。


  

2005年07月06日

日本でのチャンバー治療(3)



運命の治療が終わった。。。

そして僕は、今日の治療前から決めていた言葉を先生に言った。真剣な眼差しでゆっくりと言葉を噛みしめながら

             『右足の膝が痛みます。。。』 

 明らかに嘘の報告だった。 もちろん悪い事だと。。。そしてこの嘘の報告は、ダイビングを続ける事ができるだけであって、僕の体自身の治療には、何の成果もない事。そして再度命に関わるかもしれない、という事も全て覚悟の上の嘘の報告だった。

 なぜそこまでして続ける意味があるのだろう?命を懸ける意味があるのだろうか?自問自答して歩く町並みは全く目に入らない。まるで別世界を歩いているかのように、ただひたすら歩く。

 そしていつしか僕は、自分に膝が痛んでいるかのような、痛みがある(体内の窒素が動き出している)ような感覚、錯覚におちいる、まだ自分がなおると勘違いをしている。。。

 日本での最終治療を終えた僕は、SAIPANに帰国した。海が待っている、またGROTTOに潜れる、ゲストと海の楽しさを共有できる、僕の生きる場所へと戻ってきた。

はずだった。。。
  

2005年06月28日

日本でのチャンバー治療(2)



約5時間のチャンバー治療が終わった。GUAMでの治療はほとんど寝ていたという事、屈強なマリーンと入っていた事と比べ、日本での治療は先生がずっと見ていてくれ、時折マイクで指示が出る。
それに答える自分の声がまるで、ヘリウムガスを吸ってしゃべったような声で笑える(もちろん当時の僕は笑っていられるほど根性ない、小心者・・・)

喉渇きますか?と先生がチャンバーの小窓から、缶のお茶を差し入れてくれた、小窓を加圧してチャンバーの中と同じ気圧にしてから、窓を開けていい指示がでた。小窓をあけ缶のお茶を取って、ビックリ!!!
 なんと缶のふたがあけてあるでないか?なんて親切な?缶のふたをあけてなんて渡された事ない・・・
お姉~ちゃんを一生懸命口説くときにさりげなく、缶コーヒーを渡すときに空けてあげる事はあっても・・・(一生懸命口説くときに缶コーヒーなんか飲んでんじゃねーよ、だからここ一番で落とせーねーんだよ!と突っ込みありがとうシーサーメス

 ば~か!よくよく考えたら、加圧するんだから、フタをあけてないとつぶれるだろうが。。。お前本当にイントラか?と心の中で自分に突っ込みを入れてしまった・・・)

とそんなアホな事を考えながら、治療は終わった。。。チャンバーからでた僕は、自分の体に問いかけた。。。変化はあるのか?痛みは出てきているのか。。。先生は治療をすると、活性化した窒素により多少の痛みがある。。。なければもう完治をあきらめるくらいの重症との説明があったばかりだ。

     『どうですか?』  先生は聞いた。

       『多少痛いような気がします。』
 

  正直この時に膝が痛んでいたという感覚はなかった。『多少痛いような気がします。』嘘をついていた。しかし、将来もダイビングを続けていたい・・・、可能性を自分の言葉で打ち消したくない・・・という気持ちから先生に伝えた精一杯の答えだった。痛いような気がするんだ・・・自分にも言い聞かせた。
 きっと先生は見抜いていたんだろうな・・・『次回は○月○日に2回目の治療をしましょう、そこで、痛みがはっきりと自覚できないようであれば、もう何回チャンバー治療しても無駄ですから、治療を中止します。いいですね。。。他の仕事を考えなさい!』

 取り乱しそうだった。『ありがとうございました。』もう限界ギリギリの状態で、お礼を言って病院をでた。ドアを閉めた時点で前が見えない状態だった、涙が止まらない。
 涙が出るのは、自分の体に変化がないと自覚しているから、つまりもう治療しても可能性が・・・というのを自分だけが認めていたからの涙だった。。。
 
 誰にも話せない、どうしよう、、、橋を渡り、駅に向かう。夕方という事もありたくさんの人とすれ違う、すれ違う人が振り返る気配がする。それでもこの涙を拭く気にもなれない。長い上り坂だった。。。
人はたくさん歩いているのだが、なんか別世界のようだった。俺はどこに向いて歩いているんだろう。。。

この日どうやって電車を乗り継いで帰ったのか、全く覚えていない。

 誰に何を話せばいいんだろう・・・こんな時弱音を吐く事のできる人がいない。。。初めて気づいた。。。いつも強がって生きているのかな~、誰に話せば聞いてくれるんだろう?いや誰になら、こんな話を出来るんだろう?

 数日後、2回目のチャンバー治療の日がやってきた。
そうこの日治療は今後のダイビング人生を左右する日、いや人生そのものを左右する日に違いない!
治療に向かう時、僕は心の中に決めている事があった・・・それは



  
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2005年06月21日

日本でのチャンバー治療




先生の口から慎重に伝えられた言葉は、『もう完治しません、ダイビングはやめて違う仕事をしなさい!』だった・・・あまりにも重過ぎる。。。覚悟はしていた言葉とはいえ、サイパンやGUAMで言語の違う医者に、こちら側の状況を充分に伝えられたかどうかわからずに治療を受けたときと、言葉が通じる場所で、全てを伝えきって言われた言葉の重みは全然違う。。。
  
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2005年06月19日

日本に一時帰国、治療



GUAMからサイパンに帰国し(←すっかりチャモロ人な俺!)1ヶ月の安静期間に入る。海が目の前なのに、潜れない、餌お預け状態の犬のよう・・・(ちなみに犬年のくせに犬が怖い俺、どうなの?)毎日がイライラというか情けないというか。。。

 救いと言えば、僕の減圧症の原因となった、急浮上のお客さんは何も体に異常なく、僕の減圧症の事も全くしらずに帰国した事。一安心。水の中の全ての責任はイントラ!が持論、余計な心配はかけたくないですからね。  
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2005年06月17日

再圧チャンバー  ~2~



一晩中のチャンバー治療が終わり、屈強なマリーンとチャンバーをでた。『俺の体どうなんだろう~』
そして例によって、美人な女医さんからの、怖い怖い説明。。。でデービスによる同時通訳僕ボクサー

1ヶ月のダイビング禁止。飛行機搭乗3日間禁止、えっGUAMにまだ3日も滞在すんの・・・  
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2005年06月14日

荒れ狂う海



昨日までの風が朝には、逆風に変わる、、、そんな事この時期の海は珍しくない!
だからこそ、毎日のように海に入る現地サービスだからこそ、お客様に対して、安全、その日1番のコンディションの海を提供できる。

天気予報どおりにならない事も珍しくはない、日々入るからこそ情報を得る事ができる。あたらしい情報、今までとは違う情報、海って生き物、荒れる日も穏やかな日も、あるいは場所によってなんて事も・・・だから海は面白いんですよね。。。

 今日は少し、路線がずれてしまいましたね。。。

そうそう、屈強な兵士と、チャンバーでハンバーガー食べてる所からでしたね。。。  

Posted by shin at 16:08Comments(0)TrackBack(0)

2005年06月13日

再圧チャンバー



再圧チャンバーとは、文字通り、体に再び圧力をかけて、その後ゆっくり圧力を下げていき、体の中の過剰な窒素を抜くというもの、むろんイントラの端くれ、そんな事はわかってはいたものの・・・自分の治療になるとは。。。

  
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